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『すずめの戸締まり』ダイジンは何がしたかった?切ない最後と目的を考察

深くてやばい!
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映画「すずめの戸締まり」に出てくる白猫のダイジン。

何がしたかったのかよくわからない奔放な行動の理由がその正体から考察できました!

また、ダイジンの最後は、正体ゆえの切なさが描かれています。

ダイジンが迎える最後、正体や目的がわかると『何がしたかったのか』がわかります!



すずめの戸締まり/ダイジンは何がしたかったのか?

一体、ダイジンは何がしたかったのか?

物語りにおいてダイジンがしたかったことは「要石ではない存在として愛されたい」ための行動だと思いました。

しかし、ダイジンに役割として与えられていたのは「解放すること」「守ること」です。

落ち着きのある黒猫のサダイジンと比べると、白猫のダイジンはパッと現れて、自由奔放!

勝手に動いては問題ごとを起こしているように見えました。

なので、一見、何がしたくて登場したのかわかりにくいですよね。

しかし、私は物語を進めるダイジンの行動に、

神様のように他者のためへの役割がある強い存在。

人間の小さな子供のような自分本位としての存在。

人と神の意識の違いゆえの、交わることの難しさ。

が表現されていると感じました。

ダイジンの「したい事」と「するべき事」が違ってしまったため、問題が引き起こされていきます。

まず、ダイジンのことを知るために、ダイジンのもつ二つの役割について見ていきます!

順見ていくいくと、ダイジンの目的や在り方が変化していくのがわかります。

 

地震を止める要石。

最初のダイジンの役割は、大きな地震を鎮めるための存在です。

このタイミングでは、ダイジンは「皆のため」に存在するように思えます。

ダイジンは「要石」なだけあって、力を持つ存在です。

神様のような存在ですが、動きや行動から見た時「荒魂」を感じました。

荒魂と和魂とういう、1つの側面を表しているように思えたのです。

まだ、在り方としてもダイジンの個人的な願いで動いてはいません。

次の役割で、ダイジンの在り方が変化します。

 

「解放」の象徴

ダイジンの役割でもあり、ダイジン自身の願いにも近くなってきます。

映画での描写からは「すずめを解放する」存在であり「すずめに解放される存在」にもみえます。

 

私は、ダイジンがすずめによって解放されたことで、要石ではない自分、自由な自分を知った。

だから、鈴芽も自分といたら幸せになれる、自由になれる!(=幸せ)」

と思ったのではないかと思えたんです。

「自由」というキーワードに、要石としての窮屈さと、すずめのもつ窮屈さが結びつきました。

小さなころ叔母の環に引き取られた鈴芽が抱える「感謝と窮屈さ」。

また自分が環から自由を奪ってしまったという「罪悪感からの解放」とも言えそうです。

ダイジンは自分が自由になることと、すずめが自由になることは同じだと感じたのかもしれません。

どこか小さな子供のようなダイジン

 

ダイジンの行動は、鈴芽の望むような過程の「自由」ではない。

ということがダイジンには理解できず「幸せ」とは違う方向にすれ違っていきます。

かつて様々な神話物語でも語られてきた、

人間と人間ではない存在が共感できない『溝(みぞ)』

と似ているように思いませんか?

そして、この辺りからダイジンの在り方が、

「他者のため」から「自分のため」に力を使うような描写にに変化したように感じました。

なんだか、大きな摂理が含まれているように感じませんか?。



すずめの戸締り/ダイジンの最後が切ない…かわいそう!と涙したセリフ

前章で触れたようにすずめとダイジンの「すれ違い」は大きくなっていきます。

ダイジンの最後がかわいそうすぎる…と話題になったラストシーンへと繋がります。

その時、ダイジンが鈴芽に言った言葉がとても切なくてウルっときます。

要石に戻るシーンが切ない

最後、ダイジンは要石に戻ることになります。

その時に、か細い声で伝えた言葉が切ないんです。

すずめの子にはなれなかったよ…

引用元:すずめの戸締まり制作委員会

私は、要石としてではなく「ダイジン」という猫としての言葉だったように感じます。

本当はすずめと一緒にいたかったハズです。

ダイジンもサダイジンも要石、神としての存在に近いです。

自分の役割は、要石として『土地を守る』ことしか知らなかったダイジン。

淡々と役目を受け入れる中でも、どこか人間に共鳴するような感情はあったのかもしれません。

すずめと出会い「うちの子になる?」と言われて、初めて「要石」としてではない自分を見つけた。

ただの猫として制約のない生き方ができるかもしれない!

そう思ったのかもしれない…と思うと切なくなってしまいます。

 

切ない!すれ違い

ダイジンは自分をただの猫のように受け入れてくれたすずめのそばにいたかっただけ。

しかし、ダイジンの行動がすずめの望みとすれ違っていました。

そのため、序盤ですずめに拒絶されてしまいます。

画面の外からみているだけに切ないんですよ。

ダイジンは、すずめを救いたい!すずめの願いを叶えたい!

それだけだったように思えます。

なので、すずめが怒った意味が分からなかったのでしょう。

私は、そのすれ違いがもどかしくて切なかったです。

 

最後のシーン、ダイジンは草太を助けたのではなく、すずめを助けたんですね。

自分を見てくれたすずめだから、すずめの気持ちを叶えようとしたのではないでしょうか?

「すずめの子にはなれなかったよ」

という最後のセリフ。

私には、

人間の気持ちが理解できるような(ただの)猫にはなれなかったよ。

という意味に聞こえました。

すずめの手によって要石に戻ることで、

これからも土地を守る神として生きていくしかない自分を受け入れたのでしょうね。

このシーンでダイジンの在り方が「自分本位」から「他者のため」に戻っていきます。

けれど『さすが神様!』とは言いにくい、切なさを感じるセリフのシーンでした。




すずめの戸締まり/猫のダイジンの正体と目的を考察!

すずめの戸締まりで重要となる白猫キャラの「ダイジン」。

愛媛の民宿や、神戸のスナックなどのシーンでは、福の神のように感じる描写もありました。

ダイジンが来た後は、お客さんがたくさん入り大繁盛していましたよね。

しかし、あんなに可愛い表情をしていても、実はダイジンはけっこう怖い存在です。

ダイジンの正体「西の要石」とは

最初の方で、すずめが草太を追いかけて入った廃墟で扉を見つけた時。

足元にあった猫型の石。

それが「西の要石という地鎮のための柱でした。

「要石」は鉄槌のように地面に刺さり、地下にうごめいている地震(ミミズ)が出てこないように抑える役割をになっています。

実は要石って本当に存在するものなんです。

大地の最も深い部分である金輪際から生えている柱と言われ(中略)漂う日本を大地に繋ぎ止める「国中の柱」とされる。引用元:Wikipedia

とあるまじないを施すことで地震からの被害から守られるという風習がありました。

ダイジンは、重要でありつつも人間の感覚では理解しにくい一面を持っています。

それもそのはず。

ダイジンには神様を思わせるような描写もありました。

 

白猫のダイジンの目的は自分の代理を探す?

ダイジンは、草太を椅子に変えただけでなく要石にもしてしまいました。

要石は来なら自分の役割なのに、草太に変えようとしました。

理由は、ダイジンがすずめと出会った過程からわかります。

まずは、草太を椅子にかえてしまうシーン。

最初はただ、要石であったダイジンでしたがすずめが好奇心で抱き上げたことで封印が解かれます。

猫型の石は白猫に変化して逃げてしまいます。

その後、すずめが自分をかばってケガをした草太の手当てをしている時のこと。

再び現れた白猫に、すずめは可愛さから「うちの子になる?」と聞きます。

白猫のダイジンは「うん」と返事をするのですが。

草太に向かって「邪魔」と言い放ち、草太を椅子に変えてしまいます。

更に、ダイジンはかなめいしはおまえだ』と言葉にし、草太を要石にしてしまいます。

 

この辺りが、古来の神様っぽいんです。

古事記などを読んでみるとわかるのですが、登場する神様は結構「マイペース」です。

自分の感覚1つで物事を簡単に動かしてしまう。

人間からみたら驚くようなことでも、神様側から見たら普通の事っていっぱいあります。

良いか悪いかは勝手な判断材料にしか過ぎないとはわかっていても、ぎょっとしてしまう。

ダイジンの行動パターンはまさに人間離れしているのです。

 

ダイジンの最後と変化

だんだん、「皆のため」から「自分(と、すずめ)のため」に存在意義が変わるダイジン。

人間と役割ある存在との交わりに、とうとう終止符がみえてきます。

最後にむかうシーンでの決定的な描写。

すずめは草太を人間に戻したくて必死でした。

しかし、ダイジンによって草太が要石にされた後に、恐れていた地震が起きてしまいます。

草太を要石として打ち込まないと地震を止められないと悟ったすずめ。

とうとう、ミミズに草太を打ち込みます。

他の選択ができなかったことで、原因となったダイジンを拒絶します。

一度は「うちの子になる?」と言ったすずめの強い拒絶

その拒絶によって、ダイジンの姿かたちがどんどん「小さく痩せて」しまいます。

すずめの行動は「信仰」と似ています。

信仰されることで強い力を発揮し、信仰を拒絶されたことでエネルギーが小さくなる。

まるで、神様やその御遣いのものたちと同じ摂理のように感じます。

ダイジンとすずめはどこか、神様と巫女のような感じがあります。

ダイジンにとって、何も求めず自分を受け入れようとしたすずめは優しい存在

自分を縛り付け、道具のように使う草太が邪魔な存在と思っても不思議はありません。

しかし草太は守護する立場でもあり『要石』を使う立場にもあります。

の役目があるからこそのリスクもあるのが閉じ師。

草太の師でもあり祖父でもある宗像羊朗は、すずめからの報告を聞いても慌てず騒がずでした。

かつての経験で覚悟ができていたのかもしれませんね。

本来「信仰」を集める存在は「他者のため」に存在します。

自分のために使ってしまえば、歪が起きてしまうところも神話っぽいですよね。

神様が神様であることをやめてしまえば、信仰が続かない。

これには、人間側の傲慢さも描かれているように思えたのです。

何が当たり前で、何が良いことなのか。

その答えが嚙み合うことのない関係だからこそ、ダイジンの最後になんとも切なさを感じました。




すずめの戸締り/猫なのはなぜ?ダイジンの由来

ダイジンが白猫として描かれていた理由。

なぜ、猫だったのか。

監督本人が雑誌のインタビューで語られていました。

長野県の小海町というのどかな田舎町に生まれ育ち、いつもそばに犬や猫がいた。

僕が子どもなりに悩んでいても、超然と窓の外を眺めている。そのくせ、何もかもお見通しみたいな。そんな猫の姿に大事なことを教わりながら、子ども時代を過ごしていました。

「ダイジンは、この映画では『自然』そのものとして描きました」

引用元:「猫びより」2023年1月号のインタビュー記事より抜粋

新海誠監督は作品に登場させるほどに猫が好きなんですね。

名前も製作中のすずめの戸締まりの主人公からとって「鈴芽(すずめ)」と「椿芽(つばめ)」と名付けているくらいです。

もちろん、監督が猫が好きというのは大きいと思います。

しかしながら、それだけでなないように感じます。

人間と暮らしながらも、完全に人間に適応するのではなく、あくまで自然との適応に、うまく人間を使っている。

そんな猫の度量の大きさが、神様のイメージと重なったのではないかと私は思いました。

干支の物語にも登場したり猫又の言い伝えもあるくらい、不思議な生き物として語り継がれてもいます。

それに、猫の神様をまつる神社もあるんですよ!

猫のあくまで自然体で生き、人間を巻き込む方。

という大きさを感じる姿勢は、不思議な魅力となり神格化されやすいのもうなずけますね。

新海監督は「こんなに愛していただけると思ってなかった。猫の姿を借りてるけど神様ですからね。引用元:マイナビNEWS

物語を動かす大事なキャラクターです。

名前の由来も、しっかりパンフレットに掲載されていました。

ダイジンというのは「大神」からきています。

鈴芽の苗字は「岩戸」

アメノウズメノ命が由来となっている名前であることは一目瞭然。

天照大御神が隠れてしまった際に岩戸を開くウズメノ命の姿。

どこか、ダイジンを解放した時のシーンに繋がるような感じがしませんか?

それ以外にも、SNSで写真を見た人たちから、キャラクター発表があった時に白いひげの様子から「大臣みたい」と話題になっていたこともあるので、両方をうまくかみ合わせたのでしょうね。

言葉遊びのように伝わっている「言霊」って実は日本にはたくさんあるんです。

そんなところの引用の仕方も、似ているのかもしれませんね!




すずめの戸締まり/ダイジンはかわいいだけじゃない?

ダイジンは猫の姿ですが、ただ、可愛いから選ばれたわけではないと思うのです。

古来より、神様や神様の使いとして動物がモチーフとされているものは数多くあります。

主要なキャラクターに動物の姿を起用しても何ら不思議はありません。

 

私は、新海誠監督は描写の仕方や捉え方が独特だなと思うんです。

地震も、火と水の神である「日不見(ひみず)の神」を赤黒いミミズに象徴させていました。

要石もただの人柱や結界として存在させたわけではないと思います。

古事記や日本書紀からイメージを引っ張ってきている部分をたくさん感じます。

けれど、そのまま使っているという感じがありません。

薄紙一枚分、違うところから切り込んでくる感じがするのです。

 

私が、ダイジンとすずめのやり取りを見て感じたのは、

人間と神様のスケールの大きさの違い。

天災や震災はもちろん辛いことも言葉では言い表せない悲しさや被害も多いです。

自然を目の前にした人間の小ささでもあります。

自然かたみたら、人間の意図などは知らぬ顔で、在るものは在るのだという感覚でしょうか。

悟りにも似た、ただ静かで大きなものを感じたんです。

そして、それとまた違う強い抗いとして、

大きな自然の前では無力でも、人間にはそこから立ち上がる底力がある。

新海誠監督の描写から、そんな強さも受けました。

ダイジンとすずめのやり取り。

草太の祖父の言葉に見える覚悟。

それらはすべて、感情や善悪観念だけでは理解不能な部分があります。

ダイジンの正体や目的を知れば知るほど、スケールの大きい違いを感じました。

改めて、地球という全てに、神様という存在に、畏敬の念を抱きました。

その存在の大きさを人間が代われないように、また神様も人間の視点で見ていないのだと思います。

起こることは起こる。という無力感。

しかし、そこからどう動くのか?という希望。

そのどちらも持っているのが人間である。

というのを、ダイジンの行動やすずめとの関りで表現しているのではないでしょうか?

 

ダイジンの行動、すずめの戸締まりという物語を通して感じた人間の小ささや傲慢さ、そして希望。

目の前に或るものをどうとらえどう動くのか。

ダイジンの存在は、そう問いかけ続けているように感じました。



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