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「クリーピー偽りの隣人」注射は何?意味がわからない所を考察!

本当はどうなる?隠れた意味
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クリーピー偽りの隣人で使われた注射は何だったのか?

意味がわからないところが多すぎる映画。

香川照之演じる西野と西島秀俊演じる高倉のサイコパスな展開から考察。




「クリーピー偽りの隣人」注射は何?

クリーピー偽りの隣人で使われていた注射は何なのか作中では明確な表記はありません。

澪の母や、康子の様子からみて、依存性はありそうです。

注射自体に依存性があるとは限らないのでは?とも思ったんです。

西野は明らかにマインドコントロールする際に使っています。

康子はぐったりしていたり脱力していることが多かった。

安定したり高揚している気配はありませんでした。

もしかしたら、西野の洗脳に都合の良い状態を作り出すための薬剤を注射しているかもしれませんね。

①意識が混濁したり錯乱するタイプ

②強い鎮静剤的な作用があるもの

どちらにせよ、思考能力を失ってしまうものでしょう。

この2種類をうまく使い分けながら、巧みに洗脳している可能性があるのではないでしょうか?

でなければ、物語の終盤、高倉が理性だけでなんとかできるようなものではないと思うからです。



康子が注射を打たれた理由は握手。

明らかに康子を自分にとって都合よくコントロールするためですよね。

すくなくとも刑事の妻であった康子がどうやって注射の手に落ちてしまったのか?

というのは、終盤で谷本が西野家の地下穴に落ちた時の行動でわかります。

西野が康子に握手を求めるシーンがありました。

あの時の康子はひどく錯乱していました。

康子は西野に目を向けずに手を握られていました。

クローズアップされていませんでしたが、握手する時に注射をうたれてしまったのでしょう。

西野は自分に会えば「心が穏やか」「心が高揚する」という状況を作り出していました。

更に自分の手を汚さない西野。

「康子自身が悪いのだから始末するのは君だ」とばかりに誘導していきます。

その巧みな洗脳で、康子は高倉が自分に関心をもってくれないと思いこんでしまう。

西野は高倉に近づくために康子の心の底にあった不安や寂しさにつけこんだ。

自分が康子を「一番理解できる」人物だと思わせ

注射で思考回路を奪う。

次に「恐怖と罪悪感」を植え付け逃げられないようにする。

という方法で洗脳しながら、自分に都合よく使っていったのです。

思いもよらないタイミングで思考を奪われてしまった康子。

例え、刑事の妻であったとしても、人間の底に眠る弱さはあります。

それ故、西野の策に抗うことはできなかったのでしょう。



「クリーピー偽りの隣人」意味がわからないと言われる理由

クリーピー偽りの隣人で、意味がわからないと言われる理由。

①人間の中に潜む「魔物」による不可解な展開描いている。

②黒沢監督は最後まで決定打を描かないようにしていた

この2点があげられると思います。

人間とはそもそもモンスターである。どんな人間のなかにもモンスターは潜んでいて、その魔物を目覚めさせることなく生きられるか否かは、ほとんど運次第のようなものではないのか。引用元:映画.com/黒沢清監督インタビューより

黒沢監督がインタビューで語っていました。

人間の多くは「倫理」「理性」「常識性」と言うものが働いて生きています。

それとは逆の発想や行動は全くといっていいほど理解しがたい不可解さがあります。

倫理や理性での制御がなくなってしまった人間の「強い欲求」はまさにモンスター。

なぜ、そうなるか、止められないのか、意味がわからない不可解さを伴います。

クリーピー偽りの隣人では意味がわからないところが結構あります。

クリーピー【creepy】 の解説
[形動]ぞっとするさま。ぞくぞくするさま。引用:goo辞書

タイトル通り、理性や倫理とはかけ離れた世界観が全面に出ています。

狂気や怖さ、気持ち悪さが存分に漂っていました。

最初から最後まで不穏すぎる空気しか漂っていない「クリーピー」

『なんでそうなるの?』

と思うような不可解なシーンも多いので意味がわからないと感じるのではないでしょうか?

特に意味がわからないところを細かく考察していみました。




シチューに隠された意味

シチューのシーンは結構、意味がわからないと言われます。

引っ越して早々、西野に対して文句を言っていた、高倉の妻、康子。

あんなに憤慨していたのに、手作りのシチューをおすそ分けに行ったのはなぜ?と思いますよね。

康子は西野だけでなく他の隣人にも手作りのチョコを差し入れようとしていました。

その点から、私が考察したことは、

手作りシチューは康子の中の「認めてほしいという寂しさ」の表れではないかということ。

「手作りの物=心がこもっている」の表現といえます。

手作りの物をあげられるということは自尊心や人に施す精神があるということでもあるでしょう。

小さな自尊心と人に施す精神がある人に罪悪感を植え付けることは難しくなさそうです。

それをサイコパスの西野が見抜いたとしたら。

称賛して、寂しさを埋め、人の良さを利用すれば扱いやすい素材だと思ったのかもしれません。

現に康子は西野のことを変な人だ、失礼な人だと夫の前で罵っています。

その小さな罪悪感をつつけば簡単に引き込むきっかけなど作れてしまいますよね。

康子は西野に強い「マイナスのイメージ」を持った。

そのマイナスのイメージはいわばシーソーの反対側にある重りのようなもの。

西野にしてみれば簡単に反対側の興味へと転換できてしまうでしょう。



澪が残された理由

大きな理由は、西野は自分の手を汚すことは一切したくないタイプだったからと言えます。

他の登場人物が注射によって順番に西野の手に落ちていく中、澪だけは管理する側でした。

澪はいわば中間管理職として置かれていたのではないかと感じます。

澪は学生なので学校に行かなければ不審がられる。

学校で見つかればすぐにバレてしまいます。

また、一人で生きてはいけない年齢なので洗脳しやすく動かしやすい。

これらの理由で薬によるコントロールは不要と考えたのでしょう。

苦しそうな母に注射を打とうとした澪。

西野から「お母さんに打ちすぎるな死んでしまう」と言われていました。

子供で体も未熟な澪は、耐えきれない可能性が高いです。

自分の手を汚さず、更に下の駒を動かせる澪。

西野にしてみたら、薬を使ってまで危うくするメリットはありません。

澪はそのまま飼われていたのではないでしょうか?

「クリーピー偽りの隣人」は、

キャスト(キャラ)の行動も意味不明な点が多いんです。

キャストの関係性から映画の意味の分からなさや

ひどさを解説、別記事にしています。

「クリーピー偽りの隣人」最後で意味がわかった!

最後の結末も意味がわかりにくいシーンが続きます。

高倉がなぜ西野に洗脳されなかったのか?

映画の結末はどんな意味があったのか?

高倉や康子、澪はどうなるのか?

にわけて考察していきます!

高倉が注射を打たれても洗脳されなかった理由

ラストに向けて、高倉は思考を奪われた康子に注射されてしまいます。

ハッキリ、そのシーンが映し出されるので間違いはありません。

しかし、西野のあら洗脳はされませんでした。

考えられる理由は2つ。

①実は注射の中身はフェイクだったのでは?

中盤で澪は「西野は父親ではない」と高倉に助けを求めてにいきました。

また、一番最初に康子が西野に自宅に招かれようとしたとき。

うっすらと首を振って立ち入るなというサインを出してくれたのも澪でした。

今までの流れから遅かれ早かれ高倉が引きずり込まれるかもしれないと察しは尽きます。

澪は注射の管理も任されていました。

澪によって注射の薬剤のすり替えが行われていた可能性は否めません。



②薬が効きにくい体質&洗脳されにくい精神だった

高倉が6年前の事件の話を聞き出そうとしたときの様子を思い浮かべてみてください。

かなり、自己中心的でした。

被害者を追い詰めてまで証言を取ろうとして人間じゃない」とすら言われていました。

確かに後輩の野上まで失った高倉にとって必死だったのはわかります。

しかし、その前の証言集めの時も、被害者に詰め寄って野上に止められていました。

つまり、高倉もまた自我というか「自分中心の思考回路」が強いのだといえそうです。

犯罪心理学で教鞭をとるくらいです。

それまではわからなかった混合型犯罪者の心理もつかめてきていたのかもしれません。

西野は弱さがベースにあるサイコパスで、高倉は強さがベースにあるサイコパスだと感じました。

西野の洗脳など効く余地はなかったもかも?と思えてきます。

そもそも、康子が高倉に注射を打った時。

西野の様子から、西野の指示ではないように感じられました。

西野にしてみれば、康子が自発的に自分に都合よく動いてくれる存在になった。

と過信したのでしょうね。

西野家に見切りをつけた西野の指示により4人は別の土地へと向かいます。

しかし、ラストで高倉は西野の指示を無視、西野を撃ちます。

西野はまさか、自分に従わないなんてことはあり得ないと思っていたのでしょう。

「なんで…」という驚きが隠せていませんでした。




映画の結末はどんな意味があったのか?

高倉が西野を撃ったことで、3人は解放され、この先も餌食になる人はいない。

全ての報いを受けたような西野の最後にそう思えるかもしれません。

しかし、実のところは、人間の奥に潜む狂気を全て暴き出したかのような結末だと感じました。

妻や後輩への振る舞いが許せなかった高倉は引き金を引いた。

澪は狂ったような声で西野を罵詈しました。

康子は錯乱していました。

人間の奥底にある狂気が目覚めてしまったときには、悲惨な状況が引き起こされる。

ただ、その事実を淡々と描いただけでオチもなく救いも不要という幕引きに感じられたのです。

故に、見る側にしてみたらモヤモヤした浮かばれなさが残るのではないでしょうか。

黒沢監督は終わり方まで含めて「クリーピー」を描いた…と思わずにはいられませんでした。




 

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