大ヒット中のアニメーション映画『超かぐや姫!』。
超かぐや姫で、ボカロが使われている理由を考察。
アニメのテーマは昔話の「かぐやひめ」になぞらえて作られています。
なぜ、ボカロが使われたのかをストーリーの内容や映像をみた視点から紐解きました。
超かぐや姫にボカロがなぜ使われた?理由は電子世界とのコラボ?
かぐや姫なのに、なぜボカロ?
テーマは平安時代の古典をモチーフにした作品なのに。
なぜ、初音ミクなどのボーカロイド楽曲が歌われるのか?
その理由として、私が思ったのは、
古典的なモチーフを現代に発展させたコラボレーションだからこそだと思いました。
超かぐや姫ではヤチヨは異世界から来た「電子の歌姫」。
古典のかぐや姫は「月の姫」。
似ているようでいて、まったく違ったテイストとして練り直しているのです。
つまり、月というのは古典において神秘の象徴でもあり、異次元的な存在でもあったといえますよね。
また、現代でバーチャルといえば、デジタル技術が発展し、AIが浸透してからより身近になった世界観。
架空でありつつも、現実と混合させやすいものであると言えます。
異次元の存在を、現世界とミックスさせるにはもってこいだと思いませんか?
「かぐや姫」という存在そのものが、現代における「バーチャルアイドル(電子の歌姫)」の存在と、とても似た性質を持っている。
だから、あえてボカロを使ったのではないでしょうか。
人の手が入りつつも、人間ではない存在(デジタルの歌姫、バーチャルアイドル)の存在を強く前に出すこと。
それこそが『超かぐや姫!』においてボカロが採用された最大の理由だと感じたのです。
原作の『竹取物語』において、かぐや姫は手の届かない美しさを持つ「月の都(=異世界)の住人」。
姫は地球の人間と交流しながらも、最終的には自分の本来の居場所へと帰らなければならない、いわば「一時的に現実に顕現した非日常の存在」です。
これを現代に置き換えた時、最も重なったのが初音ミクをはじめとするボーカロイドという存在だったわけです。
ボーカロイドたちもまた、データという実体のない「デジタルの月」からやってきて、クリエイターの力によって一時的に現実に歌声を響かせた存在です。
映画の舞台となる仮想空間「ツクヨミ」は、まさに現代の「月の都」。
かぐやをそこで生きる存在として描くために、ボカロはこれ以上ないほど、説得力を持ったモチーフだったと言えます。
超かぐや姫で、ボカロが使われた理由は
ただの懐かしさ狙いではありません!
“絶対に不可欠な要素” だったからなんだ!
と感じました。
超かぐや姫にボカロがなぜ使われた?アニメーションからの考察!
次にアニメーションという世界観の作り方から考察してみます。
古典的なかぐや姫という視点ではなく、現代だからこそのストーリー展開という視点がります。
過去においては、人が頭の中でそれぞれ想像していた世界を、
人の頭の中の世界をバーチャルという共有できる世界で表現しています。
そこで、あえて「ツクヨミ」の世界をAIが作り出したようなCGの映像と重ねることで、非現実さと現実の境界線の曖昧(あいまい)さが表現されているのでは?と感じました。
その曖昧さが、
「バーチャル世界と人間世界」
「バーチャルアイドルと人間」
の境界の曖昧さも表現しているように感じたんです。
AIっぽさというか、ある種の特有さを感じるデジタル映像の美しさを観た時、このアニメにボカロを使う理由の一つとしてあるんだと感じました。
古典的なテーマを匂わせながら、馴染みがある最先端の技術を使ってまったく違う世界を描く。
現代に受け入れやすい形にするために、しっかり計算された設定なのかもしれませんよね。
超かぐや姫にボカロ?なぜワールドイズマインが選ばれたのか
劇中で使用される具体的なボカロ楽曲のラインナップも、「なぜボカロなのか」という疑問への答えになっているといえそうです!
特に視聴者に強い印象を与えた『ワールドイズマイン』。
ワールドイズマインは2008年にリリースされた初音ミクのオリジナル曲。
代表曲ともいえる1曲です。
この曲は「世界で一番おひめさま」というフレーズが強く印象に残る、恋する女の子のワガママを可愛らしく歌っています。
いわば、無敵の可愛さからの究極の“わがまま”を歌った楽曲?(笑)。
その感情はとても人間らしいと思うのです。
『ワールドイズマイン』から伝わるのは「わがまま」という人間宣言とも思えたのです。
古典におけるかぐや姫も、求婚してくる貴公子たちに絶対に不可能な難題をふっかけていきます。
結婚したくなかったとはいえ、ある意味「究極のわがままをふっかけた姫」です。
超かぐや姫!も同様に、ある角度から見たら「そんな勝手な…」と思えそうなこともある。
けれど、そのわがままって、実は他者視点だからなのかもしれません。
ヤチヨのわがままは単なる傲慢さじゃないんです。
そのヤチヨの行動が、私には、
「自分という個を認めてほしい」
「決められた運命の通りに生きたくない」
という切実な願いに思えたんですよね。
異次元の存在にはまりきらなかったヤチヨの
“人間としての心の叫び”
として描かれているのかもしれませんよね。
『ハッピーシンセサイザ』が抑圧からの解放を表現。
『メルト』で初めて知った感情の揺れ動きを歌う。
かつてネット上で多くの人の心を代弁したボカロ曲の歌詞。
かぐや姫、ヤチヨ、主人公・彩葉(いろは)の心情に直結しているように思えます。
ヤチヨや彩葉の中にある、うまく言い表せない心の叫び。
これを表現するためにはドンピシャですよね。
若者の心の奥にある想い。
共感力を揺さぶるには、この曲でなきゃね!と思えてならないのです。
超かぐや姫!とボカロの関係
超かぐや姫とボカロの関係性として共通するのが、
「宿命のバッドエンドを書き換える力」
タイトルの『超かぐや姫!』についている「超(スーパー)」という言葉には、「既存の運命を超える」という意味が込められています。
古典のかぐや姫が登場する『竹取物語』。
かぐや姫がどれだけ地球でおじいさん達との関係性を大事にしていても、人間としての生活を愛していても、最終的には月の使者に記憶を消され、強制的に連れ戻されてしまいます。
「抗えないバッドエンド」の物語なんです。
この十数年間、世の中の移り変わりとともに、過去の作品が力強く変化を遂げる作品が増えてきています。
シンデレラ、人魚姫、雪の女王、ラプンツェル…
そう聞くと思い浮かぶ方も多いのではないでしょうか?
自分が運命に翻弄されるのではなく、自分から幸せを掴みに行く物語へとリメイクされています。
つまり、日本版『自由へのリメイク』が「超かぐや姫」なのではないでしょうか?
絶対的な宿命のルールを打ち破るために必要だったのが、ボカロ特有の「リミックス(二次創作)文化」の概念。
ボーカロイドの文化はちょっと特殊。
1つのオリジナル楽曲に対して、無数のクリエイターがカバーを歌い、アレンジを加え、映像を作り、解釈を拡張していくという自由さを残すことで発展してきました。
「決められた一つの正解(=オリジナルの結末)」を、みんなの力で「多様な可能性(=新しい物語)」へと書き換えていく文化なのです。
映画のクライマックスで彼女たちがボカロ曲を歌うのは、月(システム)が定めたバッドエンドのシナリオに対し、人間の持つ「二次創作(=運命の改変)」のエネルギーで反逆を起こすため。
まさに「物語を自分たちの手に取り戻す」というテーマに直結しています。
超かぐや姫とボカロの関係はここにあり!
ですね!
超かぐや姫にボカロ?制作にボカロPが関わっているから
挿入歌でもある「ワールドイズマイン」を作詞作曲したryo (supercell)さんの参加。
もっともわかりやすい説明というか回答ですが、笑
人間社会って本当のことを吐き出せないような不自由さがあります。
バーチャルの世界でしか表現しにくかった想いや世界観ってあるよなと思うんです。
どこか、バーチャルだからこそ許されている。
そんな感覚ってありませんか…。
自分を表現したくてもできない。
だからこそ、自由に制限や限界を超えるボカロに投影していきたい。
そう思えるのではないでしょうか?
母の言うなりに動き兄への劣等感を感じる彩葉に自分を投影し、
どこかで、何かのきっかけで自由になりたいと願うその気持ちが、ヤチヨの奔放さを生み出したのかもしれません。
ボカロPたちの起用については「超かぐや姫」の公式ページにハッキリ書かれています。
カンの良い方なら、超かぐや姫のストーリーとこのメンバーの名前を見ただけで、どの曲が使用されるのか推測できてしまうかもしれませんね。
主題歌を含む劇中歌には、ボーカロイド”初音ミク”による「メルト」のヒットで音楽界に衝撃を与えた
ryo (supercell)を筆頭に、kz(livetune)、40mP、HoneyWorks、Aqu3ra、yuigotの錚々たる”ボカロP”の面々を迎え、物語を音楽で彩る。超かぐや姫!公式HPより引用
ちなみに、ボカロPとは、ボーカロイド・プロデューサーのこと。
初音ミクなどの音声合成ソフトウェア「VOCALOID」等を使った楽曲…。
いわゆるボカロ曲の制作を行う音楽クリエイターのことです。
最先端で活躍され、YouTubeなどでも根強い人気を持っていた面々が参加してのプロデュース。
オリジナル曲「ワールドイズマイン」を作詞作曲したのがryo (supercell)さんが参加しているので、なるほどなと納得。
「バーチャルなら、誰でも自由になれる」
そんな想いを真っ先に組み上げた人たち。
ボカロが持つ最大の魅力を存分に発揮させた存在達の起用は、超かぐや姫のストーリーに照らし合わせた時、まぎれもなく最適解なんだと思えてなりません。
超かぐや姫にボカロ!知らない世代への架け橋
さて、この超かぐや姫に出てくるボカロ。
実は知らない世代もいる!?
「超かぐや姫にボカロがなぜ使われたのか」を検索する層の中には、
「なぜ10年以上前の古いネット文化を引っ張り出してきたんだ?」
と感じた人も多いかもしれません。
挿入歌のワールドイズマインの登場から18年と、20年近い年月の経過を考えると、そう感じても不思議はありません。
ボカロにとどまらず発展型のデジタルクリエイターは新しい存在が多々登場しています。
例えば、なぜ、YOASOBIではなく初音ミクなのか?
新規ではなく古参なのか?
それは、かぐや姫においては「古典と現代」が外せないキーワードでもあるから。
2010年代のニコニコ動画全盛期のボカロ文化。
2020年代現在のVtuberやメタバース空間での配信。
発展した基盤となっていることに真違いはありません。
ちょっとだけネタバレになるかもしれませんが、
ラストで判明するヤチヨが体験していたループの世界の意味、
「過去から未来への橋渡し」としても重なってくるように感じます。
現在でこそ、当たり前のように登場する洗練されたVチューバ―達の活躍や、バーチャル空間での熱狂は、突然生まれたものではありませんよね。
そこには必ず、かつて初音ミクという存在に熱狂し、荒削りながらも数多くの創作を生み出してきたクリエイターたちの熱量、基盤なるものが存在します。
映画「超かぐや姫!」の中で、過去のボカロ名曲が歌われた理由。
それは、この最先端のバーチャル技術(ツクヨミ)の中で生きるキャラクターたちの「魂の起源」となった部分へのオマージュであり、過程を描いているのかもしれませんね。
過去のノスタルジーとして流すのではなく、現代のデジタル世代の基盤となった「ルーツ」を表現している。
そう思えば、知るも知らないも、あの選曲がされたことに強い説得力を感じます。
超かぐや姫だからこそボカロは使われた!?
結論、なぜ、超かぐや姫にボカロが使われたのか?
それは、この新現代にこそ共感が高まる「願い」が表現されているから。
自由とクリエイティブ(表現)への憧れ、
他人ではなく”自分”という個性を生かして自由に生きたいという願い。
現代において、皆が心の奥で持っているのではないでしょうか?
自由で、奔放で、困難にも前を向き続けられる強さをもつ憧れの存在。
今までの殻を破って、一歩前に進む…そんな投影ができる身近な存在。
現代だからこそ共感が高まるのではないでしょうか?
私は、超かぐや姫は「ボカロだからこそ描けた」世界観なのだと感じます。
ネット上のレビューや考察を分析すると、当初は
「急にボカロ曲が始まって驚いた」
「ご都合主義な展開ではないか」
と違和感を抱いた視聴者もいたました。
しかし、物語の文脈を理解するにつれて
「あの曲でなければならなかった」
と評価を改めているケースがとても多く見られました。
平安時代、人々は口づてで『竹取物語』という物語を語り継ぎいできました。
そして今、私たちはインターネットという広く大きな情報の海の中で、データと歌声を通じて新しい物語を語り継いでいます。
ボーカロイドは「誰のものでもないが、みんなのものである歌声」。
このボカロを物語のキーアイテムとして使うことで、『超かぐや姫!』は単なる古典のリメイクではなく、機械的なアイテムと人間の感情が交わる到達点を見事に描き出しています。
映画館を出た後にボカロ曲を聴き返したくなるのは、私たちの中の「自由や可能性への共感」が触発されたといっても過言ではない。
言わば、個人個人が、それぞれを生きる世界も、神話の一部へであり、始まりの予感なかもしれません。

コメント